Analisis Perbandingan Mitologi Masyarakat Jepang Dan Masyarakat Batak Toba Tentang Asal-Usul Manusia

(1)

ANALISIS PERBANDINGAN MITOLOGI MASYARAKAT JEPANG DAN MASYARAKAT BATAK TOBA TENTANG ASAL-USUL MANUSIA

NINGEN NO KIGEN NI KAN SURU BATAK TOBA NO SHAKAI TO NIHON NO SHAKAI NO SHINWA NO HIKAKU NO BUNSEKI

SKRIPSI

Skripsi ini Diajukan Kepada Panitia Ujian Fakultas Ilmu Budaya Universitas Sumatera Utara Medan untuk Melengkapi Salah Satu Syarat Ujian Sarjana dalam

Bidang Ilmu Sastra Jepang OLEH :

Hyantes T.B Pasaribu NIM : 060708044

UNIVERSITAS SUMATERA UTARA FAKULTAS ILMU BUDAYA PROGRAM STUDI S-1 SASTRA JEPANG

MEDAN 2011


(2)

KATA PENGANTAR

Segala puji syukur, hormat dan kemuliaan hanya bagi Tuhan Yang Maha Kuasa yang telah menyertai dan memberikan hikmat-Nya kepada penulis sehingga dapat menyelesaikan penulisan skripsi ini. Skirpsi ini disusun sebagai salah satu syarat untuk menyelesaikan program sarjana Fakultas Ilmu Budaya Universitas Sumatera Utara Jurusan Sastra Jepang. Adapun judul skripsi ini adalah “Analisis Perbandingan Mitologi Masyarakat Jepang dan Masyarakat Batak Toba Tentang Asal-Usul Manusia”.

Dalam penyusunan skripsi ini, penulis menyadari bahwa banyak pihak yang telah membantu dan memberikan dukungan baik materil maupun moril. Tanpa bantuan dan dukungan mereka, penulis tidak akan dapat menyelesaikan penulisan skripsi ini. Oleh karena itu, penulis menyampaikan terima kasih, penghargaan dan penghormatan yang sebesar-besarnya kepada :

1. Bapak Dr. Syahron Lubis, M.A., selaku Dekan Fakultas Ilmu Budaya Universitas Sumatera Utara Medan.

2. Bapak Drs. Eman Kusdiyana, M.Hum, selaku Ketua program Studi Sastra Jepang yang telah memberikan petunjuk dan kemudahan kepada saya dalam penyusunan skripsi ini.

3. Bapak Prof. Drs. Hamzon Situmorang, M.S, Ph.D, selaku Dosen Pembimbing I, yang telah banyak memberikan waktu, kesempatan, saran, masukan, kritikan, dan nasehat, serta semangat kepada penulis dalam penyusunan skripsi ini.


(3)

4. Bapak M. Pujiono, S.S., M. Hum, selaku Dosen Pembimbing II, yang juga berkenan memberikan arahan dan bimbingan kepada saya dalam menyelesaikan penyusunan skripsi ini.

5. Seluruh Dosen dan Staf pegawai Fakultas Ilmu Budaya Universitas Sumatera Utara, yang juga turut membantu penulis dalam menyelesaikan penyusunan skripsi ini.

6. Kepada kedua orang tua penulis yang terkasih, Ayahanda Drs. H. Pasaribu dan Ibunda Dra. M.N Sinaga, terima kasih untuk segala kasih sayang, kesabaran, pengertian, doa dan dukungan moral maupun materil yang diberikan selama ini, sehingga penulis dapat menyelesaikan penyusunan skripsi ini.

7. Saudara-saudari penulis yang terkasih, adinda Nelly Gustina Pasaribu, Alfian Smalint Pasaribu dan Theo Steven Fernando Pasaribu yang senantiasa turut menyemangati penulis. Beserta sanak saudara lainnya yang senantiasa mendukung penulis dalam doa-doanya.

8. Teman-teman penulis di Jurusan Sastra Jepang Universitas Sumatera Utara angkatan 2006, terutama buat Victor Julianto (Mrs. VJ Kalento/Longtail), Fredy Walis Sembiring (Frey), Ferdian Pardede (Dian Lasak), Randy C. Simanjuntak, Andi P. Silalahi, Andar Beny Prayogi (Uncle Ben), Friska Mawarni Sagala (sebut saja Mawar), Octora Hanna Grace (Nana), July Silaen, Rialita Siregar dan adik-adik junior angkatan 2007 s/d 2010 dan juga teman-teman lainnya yang tidak disebutkan satu persatu, terima kasih untuk dukungan, perhatian, petualangan dan persahabatan yang indah selama ini.


(4)

9. Kekasih hati penulis, Ria Ema Sitha yang selalu mengingatkan penulis untuk segera menyelesaikan skripsi ini dan menyediakan waktunya untuk menemani penulis, memberi semangat, saran dan bantuan dalam menyelesaikan skripsi ini. Thanks Hasian.

10.UKM Bola Voli Universitas Sumatera Utara, terutama untuk Bapak Nasrun, Bang Roby, Bang Cher, teman–teman dan adik-adik, terima kasih untuk rasa kekeluargaan yang kita bina selama ini. Keep the spirit!

11.Teman-teman dekat penulis lainnya yang juga selalu memberi semangat dan motivasi yang diperlukan dalam penulisan skripsi ini.

12.Semua pihak yang telah membantu menyelesaikan skkripsi ini, yang mungkin belum disebutkan sebelumnya.

Penulis menyadari tidak ada yang dapat membalas kebaikan dan budi dari orang-orang yang telah mendukung dan mendampingi ini, hanya Tuhan-lah yang akan membalas semua kebaikan dan budi tesebut.

Penulis menyadari bahwa penyusunan skripsi ini masih jauh dari kesempurnaan. Oleh sebab itu, penulis mengharapkan kritik dan saran yang sifatnya membangun untuk penyempurnaan skripsi ini. Semoga skripsi ini berguna bagi kita semua.

Medan, Juni 2011 Penulis

Hyantes T.B Pasaribu


(5)

DAFTAR ISI

KATA PENGANTAR...

DAFTAR ISI...

BAB I PENDAHULUAN

1.1 Latar Belakang Masalah... 1.2 Perumusan Masalah... 1.3 Ruang Lingkup Pembahasan... 1.4 Tinjauan Pustaka dan Kerangka Teori... 1.5 Tujuan dan Manfaat Penelitian... 1.6 Metode Penelitian...

BAB II TINJAUAN UMUM TERHADAP MITOLOGI

2.1 Mitologi Penciptaan Manusia... 2.2 Mitologi tentang Asal-Usul Manusia

2.2.1 Mitologi Jepang... 2.2.2 Mitologi Batak Toba...

BAB III ANALISIS PERBANDINGAN MITOLOGI MASYARAKAT JEPANG DAN MASYARAKAT BATAK TOBA TENTANG ASAL-USUL MANUSIA


(6)

3.1 Jepang

3.1.1 Tempat Penciptaan... 3.1.2 Bentuk penciptaan... 3.2 Batak Toba

3.2.1 Tempat Penciptaan... 3.2.2 Bentuk penciptaan... 3.3 Analisis Perbandingan ...

BAB IV KESIMPULAN DAN SARAN

4.1 Kesimpulan... 4.2 Saran...

DAFTAR PUSTAKA...


(7)

ABSTRAK

要旨

ようし

人間

に んげん

の起源

きげん

に関

かん

するバタクトバの社会

し ゃかい

と日本

にほん

の社会

し ゃかい

の神話

しんわ

がく

比較

ひかく

の分析

ぶ んせき

好奇心

こ う き し ん

とは、なぜこのようにするのか、なぜそのようにするのか、

これがどのようにするのか、それがどのようにするのか、これはなんだろ

う か 、 そ れ は な ん だ ろ う か の よ う な 質問

しつもん

は 人間

にんげん

の 本 性

ほんしょう

と し て 、 い つ も

人間

にんげん

を聞

かせることである。このような質問

しつもん

は人間

にんげん

が 心

こころ

を 表 現

ひょうげん

すること

ができたり、話

はな

すことができたりして以来

いらい

、出

てきた。考

かんが

え方

かた

が深

ふか

けれ

ば深

ふか

いほど、出

てくる質問

しつもん

も多

おお

くなって、理解

りかい

できるようにたいへん努力

どりょく

している。もし、その 質問

しつもん

の答

こた

えが 情 報

じょうほう

や原因

げんいん

や理由

りゆう

と適当

てきとう

であれば 、

人間

にんげん

が満足

まんぞく

して、再

ふたた

び質問

しつもん

をしないわけである。だが、もし その質問

しつもん

こた

えが 情 報

じょうほう

や原因

げんいん

や 理由

りゆう

と適当

てきとう

ではなければ、 人間

にんげん

が満足

まんぞく

できる答

こた

えを

さが

す傾向

けいこう

である。

人間

にんげん

の大

おお

きな疑問符

ぎもんふ

になったことの一

ひと

つは実

じつ

は、人間

にんげん

の起源

きげん

がどの

ように発生

はっせい

するのかということである。また、人間

にんげん

はいつもアイデンティ

テ ィ の 起源

きげん

を 探

さが

し て い る こ と で あ る 。 更

さら

に 、 今

いま

ま で も 神話学

し ん わ が く

あ る い は

考古学

こ う こ が く

の こ と に よ っ て 、 人間

にんげん

が ど の よ う に 発生

はっせい

す る の か と い う こ と が

科学者

か が く し ゃ

や文化人

ぶ ん か じ ん

に多

おお

くの理論

りろん

が明

あき


(8)

科学

かがく

では、 私 達

わたしたち

は人間

にんげん

の起源

きげん

の理論

りろん

について 、よく 聞

いているは

ずである。その一

ひと

つの一番有名

いちばんゆうめい

なのは、ダーウィンの理論

りろん

である。ダーウ

ィンによって、「人間

にんげん

は進化

しんか

された猿

さる

の子孫

しそん

」だと述

べていた。それに対

たい

し て 、 こ の よ う な 理論

りろん

は 世界

せかい

に 衝 撃

しょうげき

を 与

あた

え た こ と も あ る 。 な ぜ な ら 、

考古学的

こ う こ が く て き

な発見

はっけん

が出

てくることと合

わせたからである。その発見

はっけん

したもの

は 何 百 万 年 前

なんひゃくまんねんまえ

の人間

にんげん

の 骨格

こっかく

に似

ている 化石

かせき

である。また、そ の 発見

はっけん

した

ものは古代

こだい

の人間

にんげん

だと考

かんが

えられていた。形

かたち

とサイズは猿

さる

の骨格

こっかく

に似

てい

る。したがって、 ダーウィン が 現代

げんだい

の人間

にんげん

は 何 百 万 年 前

なんひゃくまんねんまえ

の猿

さる

の進化

しんか

され

た結果

けっか

だと述

べていた。

ま た 、 神話学

し ん わ が く

に は 、 違

ちが

い が あ る 。 イ ン ド ネ シ ア 語大辞典

ごだいじてん

( 2 0 0

5:749)によると、神話学

し ん わ が く

とは、ある文化

ぶんか

における超自然

ちょうしぜん

のクリーチ

ャーあるいは 神様

かみさま

の生活

せいかつ

についての 神聖

しんせい

な 物 語

ものがたり

と概念

がいねん

を含

ふく

んでいる 文学

ぶんがく

で あ る 。 だ が 、 神話

しんわ

と は 、 あ る 国

くに

の昔

むかし

の 英雄

えいゆう

あ る い は 神様

かみさま

に つ い て の

昔 話

むかしばなし

であって、 超自然

ちょうしぜん

の 表 現

ひょうげん

された 国

くに

や人間

にんげん

や 自然

しぜん

の起源

きげん

に関

かん

する 深

ふか

い 解 釈

かいしゃく

を含

ふく

んでいることである。

日本

にほん

の神話

しんわ

によると 、「にに ごのみ こと」と いう 神話

しんわ

では、 権 力

けんりょく

の 象 徴

しょうちょう

として、三

みっ

つの神聖

しんせい

な物

もの

で装備

そうび

されている。それは、ネックレス

やガラスや刀

かたな

である。また、 権 力

けんりょく

の 象 徴

しょうちょう

あるいは神様

かみさま

の遺産

いさん

として、

そのみっつの神聖

しんせい

な物

もの

は今

いま

までも、まだへいか天皇

てんのう

に使用

しよう

されている。に

にごのみこと の 孫

まご

は大和

やまと

へ行

って、九 州

きゅうしゅう

の北東側

ほくとうがわ

にある 本 州 島

ほんしゅうじま

の 平地

へいち

である。 大和

やまと

では、彼

かれ

は自分

じぶん

の 権 力

けんりょく

を打

ち立

てる。そして、 神武天皇

じ ん む て ん の う


(9)

われている。日本

にほん

の信頼

しんらい

によって、神武天皇

じ ん む て ん の う

から今

いま

のへいか天皇

てんのう

まで、

途切

と ぎ

れない血統

けっとう

がある。つまり、今

いま

の日本帝国

に ほ ん て い こ く

は紀元前

き げ ん ぜ ん

から今

いま

までの途切

と ぎ

れない 権 力

けんりょく

の繋

つな

がりわけである。だが、 今

いま

は多

おお

くの日本

にほん

の知的

ちてき

な人々

ひとびと

人間

にんげん

の起源

きげん

から途切

と ぎ

れない 権 力

けんりょく

を信

しん

じていても、その伝説

でんせつ

の真実

しんじつ

を 疑

うたが

ている。

バタクトバの神話学

し ん わ が く

では、「Leangleangmandi Untunguntung Nabolon」 (バタクトバの神話

しんわ

で鳥

とり

に似

ていること)クーリエのような仕事

しごと

であって、

地球

ちきゅう

の占有者

せんゆうしゃ

と空

そら

の占有者

せんゆうしゃ

の関係者

かんけいしゃ

である。ある日

、Siboru Deakparujarさ んはSiraja

Odap--

odapさんに結婚

けっこん

させられた。だが、Siboru Deakparujarさ んはSiraja Odap-odapさんの顔

かお

の悪

わる

い理由

りゆう

でその結婚

けっこん

をきっぱり 断

ことわ

った。

それだけではなく、Siboru Deakparujar さんはわざと banua tonga に捨

てた

Ulos と いう伝統的

でんとうてき

な バ タク トバ の布

ぬの

ロ ール を探

さが

し に行

く理由

りゆう

で その 結婚

けっこん

を 欺

あざむ

いた。要

よう

するに、Siboru Deakparujar さんはやっと、その結婚

けっこん

を受

る こ と に し た 。 そ の 二人

ふたり

は 双子

ふたご

を 持

っ て い た 。 そ の 二人

ふたり

は 、Siraja Ihat

Manisiaさんと Siboru Ihat Manisiaさんである。子供達

こ ど も た ち

は banua tongaに住

ん で い る が 、Siboru Deakparujar さ ん と Siraja Odap

--

odap さ ん は banua

ginjang に 戻

もど

ってき た。 バタクトバ

ば た く と ば

の 神話学

し ん わ が く

によって は、 今

いま

まで の バタク

の 王様

おうさま

の 子孫

しそん

が そ の 二人

ふたり

か ら 来

た 。 こ の 二

ふた

つ の 神話学

し ん わ が く

を 比較

ひかく

し て か ら 、

日本

にほん

の神話学

し ん わ が く

とバタクトバの神話学

し ん わ が く

は少

すこ

し似

ているが、全部

ぜんぶ

ではないとい

うことが分

かった。 神話学

し ん わ が く

におけるストーリーはプロ ットにも 登 場 人 物


(10)

にも違

ちが

いがある。その二

ふた

つの神話学

し ん わ が く

は不当

ふとう

で、神秘的

し ん ぴ て き

である。なぜなら、

おお

げさの 物 語

ものがたり

のようだからである。

バタクトバの神話学

し ん わ が く

の面白

おもしろ

いことの一

ひと

つは全

すべ

ての地球

ちきゅう

に住

んでいる

子孫

しそん

がはっきりしたことである。逆

ぎゃく

に、日本

にほん

の神話学

し ん わ が く

と同

おな

じではなくて、

ただ天皇

てんのう

の子孫

しそん

がアマテラス臣神

おみかみ

の子孫

しそん

になることができるだ けだと考

かんが

えられている。それに関

かん

して、古事記

こ じ き

と日本書紀

にほんしょき

はただ天皇

てんのう

の子孫

しそん

だけに

ついて説明

せつめい

しているが、普通

ふつう

の人間

にんげん

の子孫

しそん

について説明

せつめい

していない。普通

ふつう

の人間

にんげん

の子孫

しそん

は地方的

ち ほ う て き

な伝説

でんせつ

に説明

せつめい

し始

はじ

まった。また、日本

にほん

の社会

しゃかい

の名字

みょうじ

は 明治時代

めいじじだい

に 出

て き た 。 バ タ ク ト バ の 神話学

し ん わ が く

は 地球

ちきゅう

に 住

ん で い る 人間

にんげん

子孫

しそん

(banua tonga)と空

そら

に住

んでいる神様

かみさま

の子孫

しそん

(banua ginjang)の起源

きげん

を区別

くべつ

している。

つ ま り 、 私 達

わたしたち

は バ タ ク の 地方

ちほう

に 住

ん で い る 人間

にんげん

の 子孫

しそん

の 名字

みょうじ

後継者

こうけいしゃ

あるいはバタクトバ

ば た く と ば

にある各家族

か く か ぞ く

になった先祖

せんぞ

が誰

だれ

だろうかという

ことが分

かった。例

たと

えば、シトゥモランやシマンジュンタクやシナガやパ

サリブの名字

みょうじ

などである。

日本

にほん

は最新

さいしん

の技術

ぎじゅつ

を持

っている国

くに

の一

ひと

つである。だが、これは自国

じこく

の 文化

ぶんか

に 影 響

えいきょう

を 与

あた

え て い な い 。 例

たと

え ば 、 日本

にほん

の 神話学

し ん わ が く

は 日本

にほん

の 帝国

ていこく

子孫

しそん

の基本

きほん

として、信

しん

じられている。また、日本

にほん

の社会

しゃかい

はアマテラス臣神

おみかみ

からの子孫

しそん

が日本

にほん

の天皇

てんのう

の子孫

しそん

の先祖

せんぞ

になったということが信

しん


(11)

BAB I

PENDAHULUAN

1.1 Latar Belakang Masalah

Manusia adalah makhluk ciptaan Tuhan yang paling sempurna. Manusia dikaruniai budi sehingga mampu memahami, mengerti, dan memecahkan persoalan – persoalan yang ada di sekitarnya. Tentu saja kemampuan manusia ini tidak diperoleh begitu saja. Melalui pengalaman, pendidikan, lambat laun manusia memperoleh pengetahuan tentang segala sesuatu yang terjadi di lingkungannya. Namun manusia tidak pernah merasa puas dengan apa yang telah didapatnya. Rasa ingin tahu , ingin mengerti yang merupakan kodrat manusia membuat manusia selalu bertanya-tanya apa ini, apa itu, bagaimana ini, bagaimana itu, mengapa begini, mengapa begitu. Pertanyaan–pertanyaan ini muncul sejak manusia mulai bisa berbicara dan dapat mengungkapkan isi hatinya. Makin jauh jalan pikirannya, makin banyak pertanyaan yang muncul , makin banyak usahanya untuk mengerti. Jika jawaban dari pertanyaan–pertanyaan tersebut mencapai alasan atau dasar, sebab atau keterangan yang sedalam-dalamnya, maka puaslah ia dan tidak akan bertanya lagi. Akan tetapi, jika jawaban dari pertanyaan itu belum mencapai dasar, maka manusia akan mencari lagi jawaban yang dapat memuaskannya.

Untuk apa sebenarnya manusia bertanya-tanya dan mencari jawab dari pertanyaan-pertanyaan tersebut? Semua itu dilakukan karena manusia ingin mencari kebenaran. Jika ternyata bahwa pengertiannya atau pengetahuannya itu


(12)

pengetahuannya itu benar. Pengetahuan yang benar adalah pengetahuan yang sesuai dengan obyeknya. Namun kebenaran itu ternyata tidak abadi. Artinya sesuatu yang pada suatu saat dianggap benar di saat yang lain dianggap tidak benar. Ini semua terjadi karena dinamika manusia yang selalu bergerak dan ingin mendapatkan sesuatu yang baru.

Salah satu hal yang menjadi tanda tanya besar di dalam diri manusia itu sendiri adalah bagaimana proses terjadinya hingga manusia itu ada. Dan manusia selalu mencari tahu asal-usul jati dirinya. Sampai sekarang sudah banyak teori-teori yang diungkapkan beberapa ilmuwan maupun budayawan bagaimana manusia itu ada, baik secara Arkeologi maupun Mitologi.

Menurut KUBI (Kamus Umum Bahasa Indonesia), Arkeologi adalah ilmu pengetahuan yang mempelajari segala hal dari zaman purba guna menyusun sejarah dan pengetahuan dari zaman itu ; -mempelajari susunan tanah, peninggalan yang tersimpan di dalam tanah itu, mempelajari prasasti, gambar-gambar, kuburan, dan sebagainya dari zaman purba itu.

Asal usul manusia menurut arkeologi dan ilmu pengetahuan tidak bisa dipisahkan dari teori tentang spesies lain yang telah ada sebelumnya melalui proses evolusi. Evolusi menurut para ahli paleontologi dapat dibagi menjadi empat kelompok berdasarkan tingkat evolusinya, yaitu :

I. Tingkat pra manusia yang fosilnya ditemukan di Johanesburg, Afrika Selatan pada tahun 1942 yang dinamakan fosil Australopithecus.


(13)

II. Tingkat manusia kera yang fosilnya ditemukan di Solo pada tahun 1891 yang disebut pithecanthropus erectus.

III. Manusia purba, yaitu tahap yang lebih dekat kepada manusia modern yang sudah digolongkan genus yang sama, yaitu Homo walaupun spesiesnya dibedakan. Fosil jenis ini di neander, karena itu disebut Homo

Neanderthalesis dan kerabatnya ditemukan di Solo (Homo Soloensis).

IV. Manusia modern atau Homo sapiens yang telah pandai berpikir, menggunakan otak dan nalarnya.

Masyarakat Jepang yang sekarang adalah hasil perpaduan dari berbagai jenis ras yang berimigrasi ke Jepang, sehingga tidak diketahui secara jelas siapa yang merupakan ras yang betul-betul asli Jepang. Yang paling awal diketahui berada di Jepang adalah Ainu, yang mempunyai hubungan dengan ras Kaukasia; dan karena itu mungkin sekali bukan penduduk asli Jepang. Kemudian ras yang bersal dari Asia tenggara, yaitu Polinesia-Malenasia bergerak ke Jepang. Masuk pula ras China dari daratan China dan ras Mongol melalui Korea. Dan adapula yang masuk dari Siberia yang berbeda dari kaum Mongol. Boleh dikatakan, lima sumber ini menjadi asal bangsa dan masyarakat Jepang yang kemudian. Tetapi, meskipun masyarakat Jepang berasal dari lima sumber dalam perkembangan sejarahnya Jepang telah menjadi satu bangsa yang homogen (Suryohadiprojo, 1982 : 9).

Sama halnya Jepang, Indonesia termasuk negara kepulauan (Archipelago state). Negara kepulauan adalah negara yang terjadi dari kumpulan pulau-pulau dan bentuk-bentuk lainnya yang mempunyai hubungan yang erat dan menjadi kesatuan geografis, ekonomis dan politis (Djulin, 2000 : 73).

Penduduk Indonesia terdiri dari banyak suku, seperti s Batak, suku Jawa, suku Dayak dan sebagainya. Menurut Badan Pusat Statistik (BPS) yang telah melakukan survei di tahun 2010 mengenai jumlah suku bangsa tersebut, dikatakan bahwa Indonesia memiliki 128 suku bangsa. Setiap suku di


(14)

Indonesia memiliki adat budaya dan kebiasaan sendiri-sendiri. Salah satu suku di Indonesia adalah suku Batak Toba.

Suku Batak Toba adalah salah satu suku dari begitu banyak suku yang mendiami pulau sumatera, pulau terbesar ke-dua di Indonesia. Secara strategis suku Batak Toba ini tepatnya bernaung di sekitar danau Toba yang terletak di provinsi Sumatera Utara.

Ditarik dari garis panjang sebuah sejarah, suku bangsa Batak Toba termasuk dalam ras Melayu Tua/ Proto Melayu yang merupakan ras Malayan Mongoloid, dan berdasarkan acuan dari diktat Etika Sosial, Aurelius Ratu, 2010, menyatakan bahwa suku bangsa ini belum menempati wilayah Nusantara hingga kurang lebih tahun 1300 Masehi.

Ras Mongoloid (sub ras Malayan Mongoloid) berasal dari daerah Yunan (Asia Tengah) masuk ke Indonesia melalui Hindia Belakang (Vietnam)/ Indo Cina baru selanjutnya ke Indonesia. Di Indonesia Ras ini menyebar melalui 2 Jalur sesuai dengan jenis kebudayaan Neolithikum yang dibawanya, yaitu :

1) Jalur pertama, melalui jalur barat dan membawa kebudayaan berupa kapak persegi. Dengan menempuh jalur darat dari Yunan mereka menuju ke Semenanjung Melayu melalui Thailand selanjutnya menuju ke Sumatra, Jawa, Bali, ada pula yang menuju Kalimantan dan berakhir di Nusa Tenggara. Sehingga di daerah tersebut banyak ditemukan peninggalan berupa kapak persegi/ beliung persegi. Keturunan Proto Melayu yang melalui jalur ini adalah masyarakat/ suku Batak, Nias (Sumatra Utara), Mentawai (Sumatra Barat), suku Dayak (Kalimantan), dan suku Sasak (Lombok).

2) Jalur kedua, melalui jalur timur dan membawa kebudayaan berupa kapak lonjong. Dengan menempuh jalur laut dari Yunan (Teluk Tonkin) menyusuri Pantai Asia Timur menuju Taiwan, Filipina, kemudian ke daerah Sulawesi, Maluku, ke Irian selanjutnya sampai ke Australia. Peninggalan kapak lonjong banyak ditemukan di Papua. Keturunan Proto Melayu yang melalui jalur ini adalah suku Toraja


(15)

(Sulawesi Selatan), suku Papua (Irian), suku Ambon, Ternate, Tidore (Maluku).

Beda halnya dengan Arkeologi, Mitologi termasuk dalam suatu kesusasteraan suci yang mengandung suatu konsepsi-konsepsi dan dongeng-dongeng suci mengenai sifat-sifat dan kehidupan dewa-dewa serta makhluk halus lainnya, dan memuat ajaran serta aturan dan hukum-hukum keagamaan. Para penganut suatu religi selalu menganggap kesusasteraan suci sebagai sesuatu yang sakral atau keramat (Koentjaraningrat, 1998:211). Tujuan dari mitologi adalah agar masyarakat primitif menjadi tenang dan puas tentang asal-usul dirinya.

Setiap kebudayaan dan bangsa memiliki mitos penciptaan-nya masing-masing. Mitos-mitos ini berkembang sebagai upaya setiap bangsa untuk menjawab pertanyaan, “Darimana asal-usul manusia”, atau “Mengapa manusia ada di dunia ini”. Suku Minahasa mempunyai cerita tentang Toar dan Lumimuut yang digambarkan sebagai nenek moyang mereka. Suku Lakota di Amerika percaya bahwa sebelum bumi diciptakan, dewa-dewi tinggal di surga sementara manusia hidup di dunia bawah yang tidak mempunyai budaya. Bangsa Mande di Mali selatan percaya bahwa pada mulanya hanya ada Mangala, yaitu makhluk tunggal yang kuat dan dahsyat. Karena Mangala bosan menyimpan empat unsur kekuatan di dalam dirinya, dewa mengeluarkannya dan membentuknya menjadi sebuah benih yang menjadi penciptaan dunia ini. Sedangkan agama Yahudi, Kristen, dan Islam sama-sama memiliki mitos penciptaan yang dimulai dari Adam dan Hawa (Mitos Penciptaaan, Wikipedia, 2007).

Di dalam mitologi di sajikan dua versi yang menjadi garis besar dalam hal penciptaan manusia, yaitu :


(16)

I. Manusia merupakan kreasi, contohnya adalah narasi tentang penciptaan manusia dalam kitab-kitab suci agama-agama Semitik (Yahudi, Kristen dan Islam) memiliki kesamaan struktur atau morfologi penuturan yang sama. Dalam kitab-kitab itu dinyatakan Tuhan menciptaan manusia pertama, yaitu Adam. Adam dibuat dari tanah, dibentuk dan dihembuskan nafas kehidupan. Dan terciptalah manusia pertama, dan selanjutnya menurut kitab ini Tuhan menciptakan Hawa sebagai isteri Adam.

II. Manusia merupakan berupa keturunan, contohnya dalam mitologi asal-usul masyarakat Jepang. seperti yang dikisahkan dalam Nihonshoki berupa seekor burung wagtail yang hinggap di dekat Izanagi dan Izanami untuk menggoyahkan bulu ekornya keatas dan ke bawah sehingga ditiru oleh kedua dewa itu. Contoh perkawinan antara dewa-dewi terlihat ketika Izanagi dan Izanami ikut membantu menciptakan dunia. Pada saat itu mereka melakukan perkawinan (pembuahan), dan bayi Hiruko pun lahir. Tetapi kemudian Hiruko dibuang dan diletakkan di atas perahu dari jerami. Pada saat itu pulau Awashima juga dilahirkan, tetapi Hiruko dan pulau Awashima tidak dihitung sebagai anak mereka.

Tetapi dari semua cerita Mitologi itu, yang dibahas dalam skripsi ini adalah mitologi Jepang dan Batak Toba. Baik Jepang maupun Batak Toba memiliki kebudayaan yang beraneka ragam. Dari kebudayaan yang beraneka ragam itu, mitologi dianggap sebagai salah satu wujud lisan tanpa praktek yang mempunyai aliran mistis yang kuat, sehingga mitologi asal-usul masyarakatnya itu pun sudah dianggap sebagai folklor.


(17)

Jepang percaya bahwa Ninigo no mikoto, cucu Amaterasu Omikami, turun ke bumi di Kyushu (pulau di barat daya kepulauan Jepang) untuk memerintah umat manusia. Kepercayaan itu masih berkembang sampai sekarang di kalangan masyarakat Jepang, keluarga kaisar dipercayai sebagai keturunan dari dewa matahari (Amaterasu omikami).

Mitologi dengan motif yang sama, dapat kita temukan di masyarakat Batak Toba, namun mitologi asal-usul masyarakat Batak Toba mempercayai kewujudan banyak Tuhan. Tuhan yang paling besar atau tertinggi kedudukannya ialah Mulajadi Nabolon (permulaan awal dan maha atau Dia yang mempunyai permulaan dalam diriNya). Konsep ini mempunyai persamaan dengan konsep “Brahman” atau kala purusha Hindu.

Mulajadi Nabolon berbentuk personal bagi masyarakat Batak dan tinggal

di surga yang tertinggi. Ia juga dihadiri oleh atribut-atribut “maha kebal” (immortality) dan “maha kuasa” (omnipotence), justru berupa pencipta segala-galanya dalam alam termasuk Tuhan. Dalam kata lain Mulajadi Nabolon hadir dalam segala ciptaan. Menurut Mitologi Batak, tempat asal suku Batak adalah Gunung Pusuk Buhit yang terletak di sebelah Barat Laut Danau Toba.

Untuk mengetahui perbandingan mitologi Jepang dan Batak Toba tentang asal-usul manusia, termasuk tentang ritus-ritus kelahiran, perkawinan, atau kematian dan roh menurut mitologi Jepang dan Batak Toba, penulis memilih judul penelitian : Analisis Perbandingan Mitologi Masyarakat Jepang dan


(18)

1.2 Perumusan Masalah

Berdasarkan latar belakang masalah penelitian di atas, maka penulis akan mencoba menguraikan tentang perbandingan mitologi masyarakat Jepang dan Masyarakat Batak Toba tentang asal-usul manusia. Dengan demikian penulis akan mencoba menjawab masalah-masalah yang akan dibahas dalam skripsi ini, yaitu:

1. Bagaimanakah perbandingan mitologi masyarakat Jepang dan Masyarakat Batak Toba tentang asal-usul manusia ?

2. Bagaimanakah perbandingan mitologi masyarakat Jepang dan Masyarakat Batak Toba tentang penciptaan manusia pertama ?

1.3 Ruang Lingkup Pembahasan

Dari permasalahan yang ada maka diperlukan adanya pembatasan ruang lingkup dalam pembahasan permasalahan agar masalah penelitian tidak terlalu luas dan berkembang jauh sehingga masalah yang akan dikemukakan dapat lebih terarah dalam penulisan nantinya.

Ruang lingkup pembahasan ini terfokus kepada mitologi masyarakat Jepang dan Masyarakat Batak Toba tentang asal-usul manusia. Tetapi agar penelitian ini tidak terlalu luas pembahasannya, maka penulis perlu membatasi masalah penelitian. Dari masalah-masalah di atas tadi, maka masalah penelitinya hanya :

1. Mendeskripsikan perbandingan mitologi masyarakat Jepang dan Masyarakat Batak Toba tentang asal-usul manusia.


(19)

1.4 Tinjauan Pustaka dan Kerangka Teori 1.4.1 Tinjauan Pustaka

Latar belakang sejarah tidak dapat dipisahkan dari terbentuknya kebudayaan suatu bangsa, maupun terbentuknya suatu masyarakat. Banyak juga hal-hal yang mendukung latar belakang seuatu sejarah, misalnya mitologi. Pada awalnya mitologi diartikan sebagai imajinasi sederhana yang primitif untuk menyusun suatu cerita, dan biasanya disampaikan secara turun temurun. Walaupun sedikit melenceng dari kehidupan nyata, mitologi depercayai memiliki kekuatan untuk mempengaruhi pemikiran dan kehidupan suatu masyarakat. Mitologi tidak dapat dipisahkan dari mitos, karena mitologi juga dianggap sebagai wujud dari mitos, yang berarti di dalam sebuah mitologi terdapat banyak mitos yang membentuk mitologi itu sendiri.

Dalam Kamus Besar Bahasa Indonesia (2005;749), mitologi diartikan sebagai ilmu tentang bentuk sastra yang mengandung konsepsi dan dongeng suci mengenai kehidupan dewa dan makhluk halus dalam suatu kebudayaan. Sedangkan mitos diartikan sebagai cerita suatu bangsa tentang dewa dan pahlawan zaman dahulu, mengandung penafsiran tentang asal-usul semesta alam, manusia, dan bangsa tersebut mengandung arti mendalam yang di ungkapkan secara gaib.

Menurut William R. Bascom (1965) dalam Gulo (2007 : 7), mitologi atau mite adalah cerita prosa rakyat yang dianggap benar-benar terjadi serta dianggap suci oleh yang empunya cerita. Mitologi ditokohi oleh para dewa atau makhluk setengah dewa. Dan peristiwanya terjadi di negara lain atau di dunia yang bukan


(20)

dengan legenda (legend), meskipun ciri legenda mirip mite. Legenda dianggap benar-benar terjadi, tetapi tidak dianggap suci. Legenda ditokohi oleh manusia, adakalanya mempunyai sifat luar biasa, dan sering kali dibantu makhluk ajaib. Tempat terjadi legenda adalah di dunia seperti yang kita kenal kini karena waktu terjdinya bukan terlalu lampau. Sedangkan dongeng (folktale) juga mirip mite, tetapi tidak dianggap benar-benar terjadi serta tidak terikat oleh waktu dan tempat.

Folklor yang sekarang disebut mitologi Jepang, hampir seluruhnya berdasarkan cerita yang terdapat dalam Kojiki, Nihonshoki, dan Fudoki dari berbagai prefektur di Jepang. Dalam kata lain, mitologi Jepang sebagian besar berkisar pada berbagai Kami (dewa) penghuni Takamanohara (Takaamahara

atau Takamagahara), dan hanya sedikit sumber literatur tertulis yang dapat

dijadikan rujukan (mitologi Jepang, Wikipedia, 2007).

Di zaman kuno, setiap daerah di Jepang diperkirakan memiliki sejenis kepercayaan dalam berbagai bentuk dan folklor. Bersamaan dengan meluasnya kekuasaan kekaisaran Yamato, berbagai macam kepercayaan di adaptasi menjadi Kunitsugami atau “dewa yang dipuja” yang bentuknya menjadi hampir seragam, dan semuanya dikumpulkan dalam “mitologi Takamanohara”. Sementara itu, wilayah dan penduduk yang sampai di abad berikutnya tidak dikuasai Kekaisaran Yamato atau pemerintah pusat yang lain, seperti suku Ainu dan orang Kepulauan Ryukyu yang masing-masing juga memiliki mitologi sendiri.

Dengan didahului oleh periode Zomon yang ditandai dengan pembuatan pot atau kuali (pottery) yang diberi tali-temali pada wajah luarnya, dan periode Yayoi (abad ke-3 SM) yang telah diperkenalkan penanaman padi dan irigasi,


(21)

maka dapat dilihat terbentuknya kerajaan Yamato. Di dalam buku-buku sejarah Jepang, Kojiki (diperkirakan ditulis pada tahun 712) dan Nihonshoki atau Nihongi (ditulis pada tahun 720 dibawah pimpinan pejabat resmi). Tercantum sumber-sumber terjadinya kerajaan Jepang ( Suryohadiprojo, 1982 :10). Mitos ini menggambarkan kepulauan Jepang berasal dari dewa Izanami dan dewa Izanagi, serta dewa-dewa Takamagahara. Diantara dewa-dewa takamagahara, yang terpenting adalah Amaterasu Omikami (Dewi Matahari) dan kakaknya Susanoo no

Mikoto (Dewa Taufan).

Menurut mitos Jepang, Ninigo no Mikoto dilengkapi dengan tiga benda suci sebagai lambang kekuasaan, yaitu kalung, kaca dan pedang. Tiga benda suci itu hingga kini masih dipakai oleh Tenno Heika sebagai tanda kekuasannya, dan sebagai warisan dari sumber kedewaannya. Cucu Ninigo no Mikoto pergi ke Yamato, tanah datar di pulau Honshu yang terletak di sebelah timur laut Kyushu. Di sana ia membangun kekuasaannya dan kemudian disebut Jimmu Tenno. Menurut kepercayaan Jepang, sejak Jimmu Tenno, melalui berbagai Tenno, hingga Tenno Heika yang sekarang, terdapat garis keturunan yang tidak terputus. Sehingga boleh dikatakan bahwa kerajaan Jepang sekarang merupakan jalinan kekuasaan yang tidak terputus sejak masa sebelum Masehi hingga sekarang. Namun sekarang cukup banyak kaum cendekiawan Jepang yang menyangsikan kebenaran legenda itu, sekalipun mereka tetap mempercayai adanya kekuasaan tidak terputus dari awal sejarah manusia.

Kekuasaan Yamato ini kemudian diletakkan di atas pulau-pulau Jepang melalui suatu struktur politik yang sentral. Pada abad ke-5 kekuasaan itu diperluas


(22)

memungkinkan masuknya kebudayaan China ke Jepang dalam bentuk tulisan dan huruf China (kanji), ilmu konfisius, kalender, teknik irigasi, dan agama Budha. Hal ini membuktikan bahwa kebudayaan China mempunyai pengaruh yang mendalam atas masyarakat Jepang sejak abad ke-5.

Dalam Mitologi Batak versi Versi Drs. DJ. Gultom Rajamarpodang,

Leangleangmandi Untunguntung Nabolon (menyerupai burung dalam cerita mitos

Batak Toba) berkedudukan seperti kurir atau penghubung antara penghuni langit dengan bumi. Suatu ketika, Siboru Deakparujar di jodohkan dengan Siraja

Odap-odap. Tetapi Siboru Deakparujar tidak mau karena kejelakkan Siraja Odap-Odap-odap. Siboru Deakparujar mengelabuhi perjodohan itu dengan alasan mencari gulungan

tenunan ulos yang dia campakkan dengan sengaja ke banua tonga (dunia). Singkat cerita, akhirnya Siboru Deakparujar menerima perjodohan itu. Mereka pun mempunyai anak kembar yaitu : Siraja Ihat Manisia dan Siboru Ihat Manisia. Mereka tinggal di banua tonga (dunia), sedangkan Siboru Deakparujar dan Siraja

Odap-odap kembali ke banua ginjang (khayangan). Menurut mitologi Batak Toba

dari merekalah keturunan Siraja Batak hingga sampai sekarang.

Walaupun sebagian orang menganggap mitologi (mitos) sebagai suatu kebohongan, cerita palsu, atau hal-hal yang bernuansa magis dan misterius, namun banyak ahli justru menganggap bahwa manusia baik sebagai perorangan maupun sebagai kelompok, tidak dapat hidup tanpa mitos. Pengertian “Mitos” seperti yang dikembangkan oleh para ilmuwan sosial, khususnya para ilmuwan sosial , khususnya para antropolog, memandang mitos sebagai sesuatu yang diperlukan manusia untuk menjelaskan alam lingkungan di sekitarnya, juga


(23)

“pelukisan” atas kenyataan-kenyataan yang tidak terjangkau dalam format yang disederhanakan sehingga terpahami atau tertangkap oleh orang banyak. Sebab, hanya melalui keterangan yang bisa dipahami, maka seseorang atau masyarakat dapat mengerti dimana posisi dirinya dalam susunan kosmik. Berdasarkan gambaran itu pula mereka menjalin hidup dan melakukan pelbagai aktivitas kehidupan ( Ruslani, 2004:3-5).

1.4.2 Kerangka Teori

Sebagai rancangan teori-teori yang berhubungan dengan permasalahan penelitian, kerangka teori merupakan salah satu unsur dalam prosedur penelitian yang tak kalah pentingnya dengan hal yang menjadi fokus dalam suatu penelitian dalam hal ini semua teori-teori yang akan ditampilkan mengacu kepada objek yang dibahas ataupun dijelaskan secara terperinci. Dimana penjelasan tersebut dapat dijadikan sebagai landasan pemikiran dan titik acuan dalam suatu penelitian.

Setiap penelitian memerlukan kejelasan titik tolak atau landasan berfikir dalam memecahkan atau menyoroti masalahnya. Untuk itu perlu disusun kerangka teori yang memuat pokok-pokok pikiran yang menggambarkan dari sudut mana masalah penelitian ini akan disoroti, Nawani dalam Lamtiurma (2007 : 8).

Dalam penulisan ini penulis menggunakan teori semiotika. Dalam Ratna (2004:97) Paul Cobbley dan Litza Janz menjelaskan bahwa semiotika berarti studi sistematis mengenai produksi dan interpretasi tanda, bagaimana cara kerjanya, dan apa manfaatnya terhadap kehidupan manusia. Kehidupan manusia dipengaruhi oleh tanda, dengan perantaraan tanda-tanda proses kehidupan menjadi lebih


(24)

efisien, dengan perantaraan tanda-tanda manusia dapat berkomunikasi dengan sesamanya, sekaligus mengadakan pemahaman yang lebih baik terhadap dunia.

Selain teori di atas, penulis juga menggunakan teori mitopoik dan teori komparatif. Teori mitopoik dianggap teori yang paling pluralis sebab memasukkan hampir semua unsur kebudayaan, seperti sejarah, sosiologi, antropologi, psikologi, agama, filsafat, dan kesenian (Ratna, 2004:67). Dalam pendekatan mitopoik ini, penulis harus sadar bahwa data harus dipahami secara metodelogis sehingga diperoleh makna yang tunggal.

Di dalam ilmu sosial, penelitian komparatif adalah cara penelitian dengan membandingkan masyarakat satu dengan yang lainnya dengan maksud untuk mengetahui perbedaan dan persamaan disamping untuk mengetahui sebab-sebab terjadinya kondisi masyarakat tersebut, Abdulsyani dalam Aryani (2004 : 9). Hal ini juga didukung oleh Soekanto dalam Aryani (2004 : 9), bahwa penelitian dengan metode komparatif mementingkan perbandingan antara bermacam-macam masyarakat beserta bidang-bidangnya untuk memperoleh perbedaan-perbedaan dan persamaan-persamaan serta sebab-sebabnya yang bertujuan untuk mendapatkan petunjuk mengenai perilaku masyarakat baik pada masa silam maupun pada masa sekarang.

1.5 Tujuan dan Manfaat Penelitian 1.5.1 Tujuan Penelitian

Dalam melakukan setiap kegiatan pasti selalu mempunyai maksud dan tujuan yang hendak dicapai. Apabila tidak ada maksud dan tujuan, maka sia-sialah sebuah kegiatan yang dilakukan. Dalam sebuah penelitian ilmiah, menurut


(25)

Suwardi Endraswara (2003:201) tujuan merupakan penjabaran secara deskriptif dari permasalahan. Penelitian yang penulis lakukan terhadap perbandingan mitologi masyarakat Jepang dan masyarakat Batak Toba tentang asal-usul manusia ini pun mempunyai tujuan.

Sesuai dengan pokok masalah yang telah dikemukakan di atas, maka penelitian ini mempunyai tujuan sebagai berikut :

1. Untuk mengetahui perbandingan mitologi masyarakat Jepang dan Masyarakat Batak Toba tentang asal-usul manusia.

2. Untuk mengetahui perbandingan mitologi masyarakat Jepang dan Masyarakat Batak Toba tentang penciptaan manusia pertama.

1.5.2 Manfaat Penelitian

Hasil penelitian ini diharapkan nantinya akan bermanfaat bagi pihak-pihak tertentu, seperti :

1. Sebagai informasi untuk meningkatkan pemahaman dan pengetahuan pembaca tentang perbandingan mitologi masyarakat Jepang dan masyarakat Batak Toba tentang asal-usul manusia dan ritus-ritus peralihan. 2. Merupakan pengembangan ilmu pengetahuan bagi yang ingin lebih

mengenal kebudayaan Jepang dan Batak Toba.


(26)

1.6Metode Penelitian

Penelitian diartikan sebagai kegiatan yang dilakukan secara sistematis untuk mengumpulkan data dengan metode atau teknik tertentu guna mencari jawaban atas permasalahan yang ada (Sinaga dkk, 1997:2). Sedangkan metode adalah cara yang digunakan untuk mencapai tujuan penelitian tersebut (Sinaga dkk, 1997:8).

Metode penelitian sebagai salah satu bagian penelitian merupakan salah satu unsur yang paling penting. Metode yang dalam bahasa Yunani disebut

methodos adalah cara atau jalan. Secara ilmiah, metode merupakan cara kerja

untuk dapat memahami obyek yang menjadi sasaran ilmu yang bersangkutan. Menurut Ginting dalam Gulo (2007: 12), metode penelitian adalah prosedur atau langkah-langkah teratur yang sistematis dalam menghimpun pengetahuan untuk dijadikan ilmu.

Dalam penulisan skripsi ini, penulis menggunakan metode deskriptif, yaitu prosedur pemecahan masalah yang diselidiki dengan menggambarkan subjek atau objek pada saat sekarang berdasarkan fakta-fakta yang tampak atau sebagaimana adanya (Sinaga dkk, 1997:9).

Menurut Koentjaraningrat (1976:30) penelitian yang bersifat deskrtiptif yaitu sebuah penelitain yang memberikan gambaran yang secermat mungkin mengenai suatu indiividu, keadaan, gejala atau kelompok tertentu. Dalam penelitian deskriptif ini untuk memecahkan masalah dilakukan pengumpulan, penyusunan, pengkajian dan penginterpretasian data.


(27)

Dalam pengumpulan data-data dan bahan-bahan yang berhubungan dengan topik penelitain ini, penulis menggunakan metode studi kepustakaan (library research). Beberapa aspek penting yang perlu dicari dan digali didalam studi kepustakaan antara lain masalah yang ada, teori-teori, konsep-konsep, dan penarikan kesimpulan, serta saran (Nasution, 2001:14).

Perpustakaan yang menjadi sumber bahan bacaan adalah : Perpustakaan Umum Universitas Sumatera Utara, Perpustakaan Jurusan Sastra Jepang Universitas Sumatera Utara, Perpustakaan Konsulat Jenderal Jepang di Medan, Perpustakaan Daerah Sumatera Utara- Medan, koleksi pribadi penulis, dan sumber literatur lainnya yang mendukung penelitian ini.


(28)

BAB II

TINJAUAN UMUM TERHADAP MITOLOGI

2.1MITOLOGI PENCIPTAAN MANUSIA

Mitologi atau mite juga termasuk kedalam Folklor. Berdasarkan asal katanya, folklor berasal dari dua kata yaitu “folk” dan “lore”. Kata folk dapat diartikan sebagai sekelompok orang yang memiliki ciri-ciri pengenal fisik, sosial, dan kebudayaan, sehingga dapat dibedakan dari kelompok-kelompok lainnya. Ciri-ciri pengenal itu antara lain dapat berwujud: warna kulit yang sama, rambut yang sama, mata pencaharian yang sama, bahasa yang sama, taraf pendidikan yang sama, dan agama yang sama. Namun yang lebih penting lagi adalah bahwa mereka memiliki suatu tradisi, yakni kebudayaan yang telah mereka warisi secara turun temurun, sedikitnya dua generasi. Di samping itu, yang paling penting adalah mereka sadar akan identitas kelompok mereka sendiri. Kata lore diartikan sebagai tradisi dari folk, yaitu sebagian kebudayaannya, yang diwariskan secara turun-temurun, baik secara lisan maupun melalui suatu contoh yang disertai dengan gerak isyarat atau alat bantu pengingat. Pengertian folklor secara keseluruhan adalah sebagian kebudayaan suatu kolektif, yang tersebar dan diwariskan secara turun-temurun, di antara kolektif macam apa saja, secara tradisional dalam versi yang berbeda, baik dalam bentuk lisan maupun contoh yang disertai dengan gerak isyarat atau alat pembantu.

Seorang seorang ahli folklor James Danandjaya menyebutkan sembilan ciri-ciri folklor, yaitu sebagai berikut :


(29)

a. Penyebaran dan pewarisannya biasanya dilakukan secara lisan, yakni disebarkan melalui tutur kata dari mulut ke mulut (atau dengan suatu contoh yang disertai dengan gerak isyarat, dan alat pembantu pengingat) dari suatu generasi ke generasi berikutnya.

b. Tradisional, yakni disebarkan dalam bentuk yang relatif tetap atau dalam bentuk standar. Disebarkan di antara kolektif tertentu dalam waktu yang cukup lama (paling sedikit dua generasi).

c. Ada (exist) dalam versi-versi bahkan varian-varian yang berbeda. Hal ini diakibatkan oleh cara penyebarannya dari mulut ke mulut (lisan), biasanya bukan melalui cetakan atau rekaman, sehingga oleh proses lupa diri manusia atau proses interpolasi, folklor dengan mudah dapat mengalami perubahan. Walaupun demikian, perbedaannya hanya terletak pada bagian luarnya saja, sedangkan bentuk dasarnya dapat tetap bertahan.

d. Anonim, yaitu penciptanya sudah tidak diketahui orang lagi.

e. Mempunyai bentuk berumus atau berpola. Cerita rakyat, misalnya, selalu menggunakan kata-kata klise seperti “bulan empat belas hari” untuk menggambarkan kemarahan seseorang, atau ungkapan-ungkapan tradisional, ulangan-ulangan, dan kalimat-kalimat atau kata-kata pembukaanndan penutup yang baku, seperti “sohibul hikayat… dan mereka pun hidup bahagia untuk seterusnya,” atau “Menurut empunya cerita… demikianlah konon”.


(30)

f. Mempunyai kegunaan (function) dalam kehidupan bersama suatu kolektif. Cerita rakyat misalnya mempunyai kegunaan sebagai alat pendidik, pelipur lara, protes sosial, dan proyeksi keinginan terpendam.

g. Pralogis, yaitu mempunyai logika sendiri yang tidak sesuai dengan logika umum. Ciri pengenal ini terutama berlaku bagi folklor lisan dan sebagian lisan.

h. Milik bersama (collective) dari kolektif tertentu. Hal ini sudah tentu diakibatkan karena penciptanya yang pertama sudah tidak diketahui lagi, sehingga setiap anggota kolektif yang bersangkutan merasa memilikinya.

i. Bersifat polos dan lugu, sehingga sering kali kelihatan kasar, terlalu spontan. Hal ini dapat dimengerti apabila mengingat bahwa banyak folklor merupakan proyeksi emosi manusia yang paling jujur manifestasinya.

Adapun fungsi folklor, yaitu sebagai berikut:

a. Sebagai sistem proyeksi, yakni sebagai alat pencermin angan-angan suatu kolektif.

b. Sebagai alat pengesahan pranata-pranata dan lembaga-lembaga kebudayaan.

c. Sebagai alat pendidik anak.

d. Sebagai alat pemaksa dan pengawas agar norma-norma masyarakat akan selalu dipatuhi anggota kolektifnya.


(31)

Istilah Inggris “myth” berasal dari perkataan Latin “mythus” atau Yunani “mythos”. Menurut kamus, mitos didefenisikan sebagai peraturan khayali belaka, yang biasanya melibatkan tokoh-tokoh, tindakan-tindakan dan kejadian-kejadian luar alami (supernatural), dan meliputi beberapa ide umum mengenai gejala alam atau sejarah. Dalam percakapan sehari-hari, mitos pada umumnya diartikan sebagai cerita bohong, kepalsuan, dan hal-hal yang berbau “dongeng”. Penyebutan sesuatu sebagai mitos akan mengisyaratkan perendahan nilai dari sesuatu sehingga tidak perlu dipertahankan. Dalam pengertian ini, mitos memiliki makna yang sama dengan tahayul (dari bahasa arab Takhayyul, yakni pengkhayalan), dongeng atau supertisi (Ruslani, 2004:3).

Sebagaimana telah dikemukakan, manusia praaksara telah memiliki kesadaran sejarah. Salah satu cara kita untuk melacak bagaimana kesadaran sejarah yang mereka miliki ialah dengan melihat bentuk folklor. Bentuk folklore yang berkaitan dengan kesadaran sejarah adalah cerita prosa rakyat.

Seorang pakar kajian agama, Mircea Eliade mendefenisikan mitos sebagai “kisah nyata” dan sebuah kisah yang paling berharga karena mitos memiliki nilai sakral, patut diteladani, dan signifikan. Mitos tidak hanya mengisahkan asal-usul dunia, manusia, binatang, atau tanaman, tetapi juga seluruh peristiwa primordial yang mengakibatkan manusia hidup seperti sekarang ini, berkelompok berdasarkan jenis kelamin, terorganisasi dalam suatu masyarakat, diwajibkan bekerja untuk menyambung dan memmenuhi kebutuhan hidup, dan berkarya sesuai dengan aturan-aturan tertentu yang berlaku.


(32)

Melalui mitos, manusia tidak hanya menjelaskan dunia mereka, tetapi secara simbolis juga menampilkan kembali. Mitos bukan hanya deskriptif, tetapi juga pencerita peristiwa itu sendiri. Mitos menghadirkan masa lalu dan masa yang akan datang sekaligus. Melalui mitos, manusia terhubung dengan lingkungan, dengan nenek moyang, dengan keturunan, dan dengan yang berada di luar jangkauannya.

Mitos menurut Hariyono (1996 : 72) adalah sebuah cerita tentang kejadian atau peristiwa alam dan kehidupan manusia yang mampu memberikan pedoman dan arah tertentu kepada sikap dan sekelompok orang. Cerita tersebut dapat dituturkan tetapi juga dapat diungkapkan lewat kesenian seperti tari-tarian atau pementasan wayang. Inti cerita itu merupakan lambang yang mencetuskan pengalaman manusia purba, yakni lambang kebaikan, kejahatan, keselamatan, hidup atau mati, dosa dan penyucian, perkawinan dan kesuburan, firdaus dan akhirat.

Mitologi termasuk dalam suatu kesusasteraan suci yang mengandung suatu konsepsi-konsepsi dan dongeng-dongeng suci mengenai sifat-sifat dan kehidupan dewa-dewa serta makhluk halus lainnya, dan memuat ajaran serta aturan dan hukum-hukum keagamaan. Para penganut suatu religi selalu menganggap kesusasteraan suci sebagai sesuatu yang sakral atau keramat (Koentjaraningrat, 1998:211)

Fungsi dari mitos ialah untuk mengakomodasikan, memberikan dukungan dan memberikan landasan kebenaran dari kepercayaan tradisional dan tingkah laku. Malinowski dalam Harsojo (1971:202) menyatakan bahwa mitos bagi


(33)

masyarakat yang mendukungnya bukanlah sekedar cerita yang menarik atau yang dianggap bersejarah, akan tetapi merupakan satu pernyataan dan kebenaran yang tinggi, atau kenyataan yang utama, yang memberikan pola dan landasan bagi kehidupan dewasa ini. Pengetahuan tentang mitos yang telah lampau memberikan intensif dan pembenaran bagi ritual dan tindak-tindak moral, dan juga membina pelaksanaan yang benar dari tindakan-tindakan yang suci.

W. Schimidt menarik kesimpulan dari penyelidikannya tentang mitologi di Indonesia. Menurutnya, semua mitologi di daerah-daerah bahasa-bahasa Austronesia dapat dibagi ke dalam dua golongan. Golongan pertama berpusat pada tokoh bulan, di dalam mitologi-mitologi bulan, penciptaan dunia dan hidup tidak terjadi sebagai hasil perkawinan antara dewa dan dewi. Sedangakan golongan kedua berpusat kepada tokoh matahari, di dalam mitologi-mitologi matahari, penciptaan dunia dan hidup terjadi sebagai akibat perkawinan antara bumi dan matahari, atau antara bumi dan langit. Mitologi jenis ini terdapat pada suku-suku bangsa Kepulauan Nusa Tenggara dan Maluku, dan juga pada penduduk kepulauan Polinesia. Pada bangsa-bangsa yang mempunyai bulan, kepercayaan kepada Dewa Tertinggi masih utuh. Sebaliknya, pada bangsa-bangsa yang mempunyai mitologi matahari, kepercayaan kepada Dewa Tertinggi itu dipercayai telah menjadi satu dengan matahari, dan menjadi seorang tokoh dewa dalam mitologi saja (Koentjaraningrat, 1958:243-245).

Sistem mitos dari suku-suku bangsa dalam Harsojo (1971:202) biasanya berisi mengenai dua hal yaitu :


(34)

b. Kosmogoni, merupakan penjelasan tentang penciptaan dan asal-usul manusia.

Pada alam pemikiran mistis, manusia merasakan dirinya dikepung oleh kekuatan-kekuatan gaib disekitarnya, yaitu kekuasaan dewa-dewa alam raya, (Hariyono, 1996:71). Dewa adalah makhluk yang oleh manusia dibayangkan mempunyai nama, bentuk dan ciri-ciri, sifat-sifat, dan kepribadian yang tegas. Gambaran ini terpatri dalam pikiran manusia berkat adanya dongeng-dongeng dan kesusasteraan suci (yaitu mitologi), baik yang lisan maupun tulisan (Koentjaraningrat, 1998:204). Dewa (deity) adalah makhluk supernatural yang menguasai unsur-unsur alam atau aspek-aspek tertentu dalam kehidupan manusia, disembah, dianggap suci, dan keramat, dan dihormati oleh manusia. Dewa dianggap berwujud bermacam-macam, biasanya berwujud manusia atau binatang. Dengan kekuatan luar biasa mereka dapat hidup abadi. Mereka juga memiliki kepribadian masing-masing, memiliki emosi, kecerdasa, seperti layaknya manusia. Beberapa fenomena alam seperti petir, hujan, badai, banjir, dan sebagainya (termasuk keajaiban) adalah ciri khas mereka sebagai pengatur alam. Mereka juga mengatur aspek-aspek dalam kehidupan manusia dan menentukan nasibnya. Mereka dapat pula memberi hukuman. Beberapa Dewa yang supernatural yang tidak memiliki kemahakuasaan penuh disembah dengan sederhana. Para makhluk supernatural yang menguasai unsur-unsur alam atau aspek-aspek tertentu dalam kehidupan manusia yang berjenis kelamin pria disebut Dewa, sedangkan Dewi adalah sebutan untuk yang berjenis kelamin wanita (Dewa, Wikipedia, 2007).


(35)

dan sebagainya, yang mirip dengan perilaku serta sifat manusia, namun dengan kemampuan yang lebih unggul. Di antara semua dewa dalam suatu religi, biasanya ada yang disebut sebagai “dewa tertinggi”, yang masing-masing dianggap manguasai salah satu gejala atau kekuatan alam, misalnya dewa matahari, dewa bulan, dewa langit, dewa bumi, dewa gunung, dewa hujan, dewa sungai, dewa bumi, dewa-dewa yang melindungi perbuatan-perbuatan dan milik manusia (misalnya dewa perburuan, dewa pertanian, dewa kemakmuran, dan dewa perang), tetapi juga ada dewa penipu, dewa maut. Para dewa juga dianggap mempunyai istri dan anak-anak, yang masing-masing mempunyai fungsi tertentu dalam dunia dewata.

Dalam mitologi, para dewa biasanya tersusun secara tinggi-rendah. Dua tokoh mitologi yang banyak dijadikan obyek analisa para ahli antropologi adalah tokoh dewa tertinggi (dewa pencipta alam) dan tokoh dewa penipu. Kedua tokoh dewa ini juga terdapat dalam mitologi dari berbagai suku bangsa di Indonesia. Contoh tokoh dewa tertinggi terdapat dalam mitologi orang Batak Toba yaitu Ompu Tuan Mulajadi Nabolon yang dianggap sebagai pencipta alam yang menguasai musim-musim, hujan, guntur, petir, dan kesuburan. Ompu Mulajadi Nabolon juga merupakan leluhur yang menurunkan semua orang Batak Toba, sedangkan tokoh dewa penipu terdapat dalam mitologi banyak bangsa dan suku bangsa di dunia, misalnya dalam mitologi Yunani kuno, kebudayaan-kebudayaan Semit kuno, mitologi orang Skandinavia, kebudayaan China dan Jepang, dan sebagainya.


(36)

Di Jepang kepercayaan terhadap dewa-dewa diwujudkan dalam Shinto (

). Ajaran Shinto secara harafiah berarti “Jalan Para Dewa”. Shin juga dibaca

sebagai kami (神), ini adalah istilah untuk para dewa-dewi, jiwa para leluhur,

setan dan jiwa alam seperti binatang, tumbuhan, dan lain-lain. Shinto mulai dikenal di Jepang pada periode Yayoi (300SM). Shinto adalah agama asli orang Jepang pada masa lampau, dan masih dilaksanakan hingga pada saat ini dengan dilakukan banyak modifikasi terutama karena pengaruh ajaran Budha dan Konghucu. Shinto pada saat ini lebih banyak diperingati dalam bentuk ritual dan festival-festival keagamaan (“kami “ Para Dewa-Dewi Shinto, Wikipedia, 2007).

Shinto sudah dipuja dan dikenal oleh orang Jepang berabad-abad sebelum

kedatangan ajaran Budha yang masuk melalui China dan Korea pada abad ke-6. Salah satu dewa yang dipuja adalah ajaran Shinto adalah Tensho Daijin atau yang lebih dikenal dengan Amaterasu Omikami (Dewi Matahari).

2.2MITOLOGI TENTANG ASAL-USUL MANUSIA

2.2.1 MITOLOGI JEPANG

Istilah bahasa Jepang untuk mitologi adalah shinwa (神話) yang berarti

kisah mengenai para dewa. Mitologi Jepang merupakan gabungan dari tema-tema pribumi yang berasal dari daratan asia timur, dan dipengaruhi oleh ajaran Budhisme dan Taoisme. Mitologi Jepang pada umumnya agak tenang. Di dalamnya memang ada dewa penipu (trickter deity), tetapi tidak ada dewa yang memanifestasikan kejahatan. Sifat kompromistis lebih banyak mendasari mitologi


(37)

Jepang daripada sifat konfrontatif (Danandjaja, 1997:70). Pada umumnya bahan untuk menyusun mitologi Jepang adalah Kojiki dan Nihonshoki.

Kojiki ( 古事記 ) adalah buku sejarah Jepang yang tertua dan menurut

kata pengantar yang ada di dalamnya dipersembahkan Oho no Asomiyasumaro (O no Yasumaro) pada tahun 712 (tahun ke-5 zaman Wado). Buku ini berisi berbagai catatan peristiwa, mulai dari penciptaan langit dan bumi (Ametsuchi) dan berakhir pada zaman Kaisar Suiko, termasuk di dalamnya cerita-cerita dari mitologi dan legenda. Selain itu, kojiki juga berisi banyak syair atau kayo (Kojiki, Wikipedia, 2007).

Kojiki terdiri dari 3 jilid, yaitu:

1. Jilid I disebut Kamitsumaki, bagian ini berisi kata pengantar dan mitologi seputar kelahiran dan kehidupan berbagai kami.

2. Jilid II disebut, Nakatsumaki, bagian ini berisi kisah para kasiar yang dimulai dari kaisar pertama (Kaisar Jimmu) dan diakhiri dengan kaisar ke-1 (Kaisar O

_

jin).

3. Jilid III disebut Shisotsumaki, bagian ini berisi kisah para kaisar yang dimulai dari kaisar ke-16 (Kaisar Nintoku) hingga kaisar ke-33 (Kaisar Suiko).

Di dalam kata pengantar ditulis bahwa kojiki merupakan kumpulan tulisan yang ditulis O

_

no Yasumaro berdasarkan folklor zaman kuno Teiki (silsilah kaisar yang dihafal Hieda no Are) dan kuji (legenda). Kojiki dianggap bukan judul resmi,


(38)

dan merupakan nama yang biasa digunakan untuk menyebut buku kuno. Asal-usul judul buku ini tidak jelas, mungkin sudah diberi judul “kojiki” oleh O

_

no Yasumaro, tetapi mungkin juga orang lain yang menambahkan judul ini kemudian. Aksara kanji untuk judul buku ini bisa dibaca sebagai Furukotobumi, tapi biasanya sekarang dibaca Kojiki.

Tidak seperti Nihonshoki, Kojiki bukan buku sejarah resmi (Seishi)yang ditulis untuk kaisar. Walaupun demikian, pada kata pengantar kojiki ditulis tentang Kaisar Temmu yang menghimpun Teiki, memeriksa Kuji, menghapus tulisan yang tidak benar dan memastikan kebenaran, dan mewariskan buku ini untuk generasi berikut sehingga buku ini boleh juga dikatakan ditulis untuk kaisar.

Kojiki terdiri dari bagian yang diambil dari Kuji dan bagian yang diambil

dari Teiki. Bagian yang diambil dari Kuji berisi kumpulan cerita yang berkaitan dengan keluarga kaisar dan keluarga bangsawan, serta cerita dilingkungan dalam istana. Bagian yang ditulis Teiki semuanya berupa silsilah kaisar, daftar nama kaisar dari kaisar pertama hingga kaisar ke-33, nama permaisuri, pangeran, putri kaisar, serta anak keturunan dan keluarganya. Selain itu, di bagian yang sama ditulis nama istana, tahun bertahta, tahun wafat dan shio pada tahun tersebut, usia, lokasi makam, serta peristiwa penting yang terjadi selama bertahta. Semua data merupakan hasil hafalan pencerita istana (kataribe) untuk diucapkan sewaktu ada upacara pemakaman kaisar, dan baru mulai ditulis di pertengahan abad ke-6.

Kojiki ditulis dalam bahasa Jepang tetapi seluruhnya menggunakan aksara

kanji yang dipakai untuk menuliskan bahasa Tionghoa klasik (Hentai-kanbun). Kata-kata kuno, nama orang, nama tempat, nama barang, dan bagian berisi syair


(39)

(kayo

_

)ditulis sat aksara kanji bahasa Tionghoa klasik untuk setiap suku kata. Sewaktu menuliskan suku kata demi suku kata, disamping kanan aksara kanji juga ditambahkan tanda baca berupa aksara kanji (seperti 上).

Salinan tertua Kojiki yang masih ada sekarang disebut Shinpukuji-hon

Kojiki (buku Kojiki milik kuil Shinpuku-ji). Buku ini sekarang disimpan di kuil

Shinpuku-ji ( O

_

sukannon), Nagoya, Prefektur Aichi dan merupakan Pusaka Nasional Jepang. Pekerjaan penyalinan dimulai tahun 1372 oleh pendeta Budha bernama Kenyu dan selesai di tahun berikutnya (tahun 1372).

Nihonshoki (日 本 書 紀 ) adalah buku sejarah Jepang yang berasal dari

zaman Nara. Buku ini merupakan buku sejarah resmi yang tertua mengenai Jepang dan masih ada hingga sekarang. Nihonshoki juga disebut Nihongi. Buku ini merupakan seri pertama dari kumpulan enam sejarah bangsa yang disebut

Rikkokushi. Buku ini selesai ditulis tahun 720 (tahun ke-4 zaman Yo _

ro

_

) dan disunting dibawah pengawasan Pangeran Toneri ( Nihonshoki, wikipedia, 2007).

Nihonshoki seluruhnya terdiri dari 30 jilid ditambah 1 jilid berisi bagan

silsilah (genealogi) yang hilang. Jilid pertama dimulai dengan cerita mitologi dan diakhiri dengan sejarah di zaman Kaisar Jito. Isinya disusun secara kronologis, dan ditulis dalam bahasa Tionghoa klasik (kanbun) seperti lazimnya penulisan dokumen resmi saat ini. Berikut ini adalah daftar-daftar judul dalam Nihonshoki.

1. Jilid 1 : Kami no Yo no Kami no maki (Mitos bagian I)


(40)

3. Jilid 3 : (Kaisar Jimmu) Kamuyamato Iwarebiko no Sumeramiko’o

4. Jilid 4 :

a. (Kaisar Suizei) Kamu Nunakawamimi no Sumerakikoto

b. (Kaisar Annei) Shikitsuhiko Tamatemi no Sumeramikoto

c. (Kaisar Itoku) Oyamato Hikosukitomo no Sumeramikoto

d. (Kaisar Kosho ) Mimatsuhiko Sukitomo no Sumeramikoto

e. (Kaisar Koan) Yamato Tarashihiko Kuni Oshihito no Sumeramikoto

f. (Kaisar Korei) Oyamato Nekohiko Futoni no Sumeramikoto

g. (Kaisar Kogen) Oyamato Nekohiko Kunikuru no Sumeramikoto

h. (Kaisar Kaika) Wakayamato Nekohiko Obibi no Sumeramikoto


(41)

6. Jilid 6 : (Kaisar Suinin) Ikume Iribiko Isachi no Sumeramikoto

7. Jilid 7 :

a. (Kaisar Keiko) Otarashihiko Oshirowake no Sumeramikoto

b. (Kaisar Seimu) Waka Tarashihiko no Sumeramikoto

8. Jilid 8 : (Kaisar Chuai) Tarashi Nakatsuhiko no Sumeramikoto

9. Jilid 9 : (Permaisuri Jingu) Okinaga Tarashihime no Mikoto

10. Jilid 10 : (Kaisar Ojin) Homuda no Sumeramikoto

11. Jilid 11 : (Kaisar Nintoku) Osasagi no Sumeramikoto

12. Jilid 12 :

a. (Kaisar Richu) Izahowake no Sumeramikoto

b. (Kaisar Hanzei) Mitsuhawake no Sumeramikoto

13. Jilid 13 :

a. (Kaisar Ingyo) Oasazuma Wakugo no Sukune no Sumeramikoto

b. (Kaisar Anko) Anaho no Sumeramikoto

14. Jilid 14 : (Kaisar Yuryaku) Ohatsuse no Waka Takeru no Sumeramikoto


(42)

a. (Kaisar Seinei) Shikara no take Hirokuni Oshi Waka Yamato Neko no Sumeramikoto

b. (Kaisar Kenzo) Woke no Sumeramikoto

c. (Kaisar Ninken) Oke no Sumeramikoto

16. Jilid 16 : (Kaisar Buretsu) Ohatsuse no Waka Sasagi no Sumeramikoto

17. Jilid 17 : (Kaisar Keitai) Odo no Sumeramikoto

18. Jilid 18 :

a. (Kaisar Ankan) Hirokuni Oshi Take Kanahi no Sumeramikoto

b. (Kaisar Senka) Take Ohirokuni Oshi Tate no Sumeramikoto

19. Jilid 19 : (Kaisar Kimmei) Amekuni Oshiharaki Hironiwa no Sumeramikoto

20. Jilid 20 : (Kaisar Bidatsu) Nunakakura no Futo Tamashiki no Sumeramikoto

21. Jilid 21 :

a. (Kaisar Yomei) Tachibana no Toyyohi no Sumeramikoto


(43)

22. Jilid 22 : (Kaisar Suiko) Toyomike Kashikiya Hime no Sumeramikoto

23. Jilid 23 : (Kaisar Jomei) Okinaga Tarashi Hihironuka no Sumeramikoto

24. Jilid 24 : (Kaisar Kogyoku) Ame Toyotakara Ikashi Hitarashi no Hime no Sumeramikoto

25. Jilid 25 : (Kaisar Kotoku) Ame Yorozu Toyohi no Sumeramikoto

26. Jilid 26 : (Kaisar Saimei) Ame Toyotakara Ikashi Hitarashi no Hime no Sumeramikoto

27. Jilid 27 : (Kaisar Tenji) Ame Mikoto Hirakasuwake no Sumeramikoto

28. Jilid 28 : (Kaisar Temmu, bagian I) Ame no Nunakahara Oki no Mahito no Sumeramikoto, Kami no maki

29. Jilid 29 : (Kaisar Temmu, bagian II) Ama no Nunakahara Oki no Mahito no Sumeramikoto

30. Jilid 30 : (Kaisar Jito) Takamanohara Hirono Hime no Sumeramikoto

Berlainan dengan Kojiki, di dalam buku Nihonshoki tidak dijelaskan alasan, proses penyusunan, dan nama penyusun. Penjelasan baru ditemukan di dalam buku sejarah Shoku Nihongi yang diterbitkan kemudian. Di dalam Shoku


(44)

menyunting Nihongi, dan saat menyelesaikannya, ia mempersembahkan 30 jilid sejarah dan satu jilid bagan silsilah.

Nihonshoki diperkirakan disusun dari berbagai sumber yang lebih tua, diantaranya kitab Teiki dan Kuji. Kedua kitab ini merupakan catatan sejarah Jepang yang dikumpulkan dari legenda milik berbagai klan yang bekerja untuk istana dimasa pemerintahan Kaisar Kimmei sekitar pertengahan abad ke-6. Selain itu Nihonshoki berisi kutipan dari berbagai dokumen yang sudah tidak ada lagi sekarang. Buku sejarah Tennoki dan Kokuki yang disusun Pangeran Shotoku dan Soga no Umako ditahun 620 diperkirakan merupakan buku sejarah yang lebih tua dari Nihonshoki, tapi habis terbakar sewaktu terjadi peristiwa Isshi tahun645 sehingga perlu ditulis buku sejarah yang baru (Nihonshoki).

Siklus-siklus Takamagahara dan Tsukushi merupakan garis bersambung dari generasi para dewa melalui Amaterasu Omikami sampai kaisar Jimmu, maka kedua siklus ini sering disebut dengan nama “Gabungan Siklus Yamato”. Di bawah ini akan dikisahkan mitologi-mitologi berdasarkan Kojiki yang tertulis dalam Danandjaja (1997:72-76).

SIKLUS TAKAMAGAHARA

Pada waktu surga-surga dan bumi-bumi untuk pertama kalinya terpisah, muncullah tiga dewa dari generasi pertama. Mereka itu ialah Ame no Minakanushi no Kami, Takamimusubi no Kami, dan Lamimusubi no Kami. Mereka ini kemudian menyembunyikan diri. Pada masa itu daratan masih muda, mengambang bagaikan minyak, atau bagaikan ubur-ubur. Kemudian timbul lagi dua dewa: Umashiashi Kanihikoji no Kami dan Ame no Tokotachi no Kami, yang juga menyembunyikan diri. Kelima dewa pertama (Kotoamatsukami) ini berkumpul dan hidup memisahkan diri dari lingkungan. Kemudian timbul


(45)

dewa-menyendiri. Lalu timbul lima pasang dewa lagi. Pasangan terakhir, Izanagi no Mikoto dan Izanami no Mikoto, diperintahkan oleh lima dewa pertama untuk membuat agar tanah dapat tetap berada di tempat. Mereka dihadiahi tombak yang ditaburi permata (Ame no Nuboko). Izanagi dan Izanami berdiri di atas jembatan mengambang dari surga (Ame no Ukihashi) dan menusukkan tombaknya ke dalam laut. Setelah mengaduk dan mengaduknya, mereka angkat tombaknya. Dari ujungnya jatuh setetes garam, yang berkumpul dan bertumbuh, untuk kemudian menjadi tanah yang bergumpal sendiri (Onogorojima).

Kedua dewa itu kemudian turun ke bumi. Mereka melihat sebuah pilar dan menegakkannya dan mereka pun mendirikan sebuah rumah besar. Izanagi kemudian menanyakan Izanami: “Bagaimana tubuhmu terbentuk?” Jawabnya: “Tubuhku sudah terbentuk, tetapi ada bagian yang belum selesai terbentuk!” Izanagi kemudian melanjutkan bertanya: “Tubuhku sudah terbentuk, tapi ada bagian yang kelebihan bentuknya. Saya rasa saya akan mengambil bagian yang lebih itu dan mengisinya di bagianmu yang belum lengkap dan membangun tanah ini. Bagaimana pendapatmu?” Ia pun setuju, dan mereka pun mengelilingi pilar. Si wanita (Izanami) ke kanan, dan si pria (Izanagi) ke kiri. Pada waktu mereka bertemu si wanita berteriak: “Ahh, pria yang baik!” Izanagi menjawab bahwa tidak patut seorang wanita berbicara dahulu. Kendati demikian mereka bersenggama, dan bayi Hiruko pun lahirlah, tapi mereka membuangnya setelah meletakkannya di atas perahu dari jerami. Pulau Awashima juga dilahirkan, tetapi baik pulau itu maupun Hiruko tidak dihitung sebagai anak mereka.

Mereka kembali ke Takamagahara dan diberi tahu oleh kelima dewa pertama, bahwa mereka harus melingkari lagi pilar tersebut, dan setelah bertemu lagi, dewa pria harus berbicara dahulu. Selesai melakukan ini, delapan dewa yang menjadi tanah dari delapan pulau-pulau besar (oyashimaguni) dilahirkan; dan setelah itu dewa-dewa laut, sungai, gunung, sawah, pohon, batu dan api juga dilahirkan. Izanami terbakar sewaktu melahirkan dewa api, tetapi sewaktu ia mati para dewa logam, tanah dan air, lahir dari mulut muntahannya dan kotorannya. Izanagi memenggal kepala dewa api, dan darah yang menetes dari pedangnya lahir delapan dewa. Dari tubuh dewa api, tercipta delapan dewa lagi.

Izanami telah pergi ke Yomi no Kuni (dunia roh orang mati), dan Izanagi menyusul untuk memohon agar ia mau kembali ke dunia orang hidup. Ia setuju untuk meminta izin pada dewa dari Yomi, tetapi melarang suaminya untuk melihat dia. Tidak sabar akan kedatangan istrinya, Izanagi masuk ke dalam istana dewa dunia orang mati, di sana ia dapatkan jenazah istrinya yang sudah penuh dengan ulat. Ia kemudian lari, dan istrinya yang merasa dirinya dipermalukan, mengirim para tentara (Minions) dewa Yomi untuk memburunya. Pada bagian datar dari lereng Yomi (Yomotsu Hirasaka) di perbatasan dari wilayah itu, ia temukan tiga buah persik (Peaches). Ia mempergunakannya untuk melemparkan pada mereka, sehingga mereka tercerai-berai. Izanami kemudian mengejarnya sendiri, tetapi suaminya membendung jalan masuknya dengan batu besar. Dari balik batu itu ia kemudian memaklumkan perceraian mereka. Si istri kemudian menyatakan bahwa setiap hari ia akan mencekik seribu orang dari dunia orang hidup, dan sang suami menjawab bahwa ia setiap hari akan mendirikan 1.500 gubuk bagi orang melahirkan anak, sehingga dapat melahirkan 1.500 bayi.


(46)

Karena telah mengotori dirinya dalam perjalanan ke dunia orang mati, Izanagi menuju Tsukushi untuk menyucikan dirinya dengan mandi (misogi). Dan setiap lembar pakaian yang ia buang terciptalah seorang dewa; dari kotoran yang ia bersihkan dari tubuhnya tercipta dua orang dewa pencemar. Dua dewa pensuci kemudian diciptakan (lihat Naobi no Kami), dan ditambahkan lagi dengan 10 orang dewa. Tiga dewa terakhir adalah Ameterasu Omikami (dewi matahari), lahir dari mata kirinya sewaktu dibersihkan; Tsukuyomi no mikoto (dewi bulan) lahir dari mata kanannya; dan Susanoo no Mikoto (dewa badai) lahir dari hidungnya. Izanagi memberi tugas kepada Amaterasu untuk memerintah Dataran tinggi Surga, kepada sukuyomi untuk memerintah alam malam, dan kepada Susanno untuk memerintah wilayah lautan. Tetapi Susanno menangis terus; pada waktu ditanya mengapa ia berbuat begitu, maka ia menjawab bahwa ia ingin sekali melihat ibunya. Dalam keadaan marah ayahnya mengucilkannya.

Susanoo kemudian pergi ke Dataran Tinggi Surga untuk berbicara dengan Ameterasu. Gunung-gunung dan sungai-sungai bergemuruh, dan bumi bergetar. Curiga bahwa ia akan merebut surga, Amaterasu mempersenjatai dirinya dengan gendewa, dan mempersiapkan diri untuk berperang; namun Susanoo bersumpah bahwa ia datang hanya untuk mengabarkan bahwa ia telah dikucilkan oleh ayahnya. Ia pun lalu menyediakan dirinya untuk memnuat anak dengan Amaterasu. Dari pedang Susanoo, Amaterasu melahirkan tiga orang putri, dan dari permata rambut Amaterasu, Susanoo menciptakan lima orang putra. Gembira akan kejayaannya, karena ketiga putrinya ialah gadis-gadis cantik, ia kemudian menerobos galangan sawah Amaterasu, menimbun saluran irigasi sawahnya, dan mengotori istana buah-buahan utama Amaterasu dengan kotorannya. Pelanggaran ini masih dapat ditolerir oleh Amaterasu, tetapi kemudian ia malah melubangi langit-langit ruang menenun sang dewi, dan melemparkan masuk seekor keledai langit sampai terjungkir-balik.

Amaterasu menjadi ketakutan, sehingga ia bersembunyi di belakang pintu gua surga (Ame no Iwaya To). Segera kegelapan meliputi Takamagahara dan

Ashihara no Nakatsukunio (bumi Jepang) yang disebut juga dengan nama Utsushi no Kuni ( bumi yang dapat dilihat). Kegelapan terus berlangsung. Para dewa

berkumpul, dan atas saran Omoikane no Kami, anak dari Takamimusubi no Kami, mereka membawa dari gunung Amanokaguya sebatang pohon sakaki tempat bergelantungan 500 permata, sebuah cermin besar, dan kain suci. Ame no Uzume no Mikoto mulai dengan tariannya yang seperti halilintar di atas tempat mandi yang terbalik. Dalam keadaan kerasukan ia memperlihatkan payudaranya, dan menurunkan roknya sehingga terlihat alat kelaminnya. Semua ini memancing gelak tawa para dewa. Mendengar hiruk pikuk itu Amaterasu membuka pintu gua sedikit, untuk menanyakan mengapa Uzume menari dan mengapa para dewa menertawakannya. Uzume menjawab bahwa seorang dewa yang lebih besar dari Amaterasu telah datang, dan ia pun menunjukkan cermin kepadanya. Sewaktu ia membuka pintu lebih lebar, maka ada seorang dewa yang bertenaga kuat memeganggnya dan menariknya keluar dari gua tempat persembunyiannya. Sinar pun menerangi lagi kedua wilayah (surga dan bumi) itu.

Susanoo dipaksa untuk membayar denda dalam jumlah besar sekali. Dan selain itu rambutnya pun dipotong, kuku jemari kaki dan tangannya dicabut, dan


(47)

ia dibuang. Susanoo minta makanan, dan yang diberikan adalah zat-zat yang keluar dari hidung, mulut dan lubang dubur dari dewa O

_

ketsushime no Kami. Susanoo tersinggung dan membunuh O

_

ketsushime. Namun dari lubang-lubang tubuhnya keluar ulat sutera, padi, jawawut, kacang merah, gandum, dan kkacang buncis (broad bean).

SIKLUS IZUMO

Susanoo turun ke gunung Torikamiyama di Izumo; di sana ia menemukan sepasang orang tua sedang menangis di samping putri mereka. Si lelaki mengatakan bahwa ia adalah dewa tanah (kunitsukami), dan setiap tahun ular berkepala delapan dan berekor delapan bernama Yamato no Orochi datang untuk memakan salah seorang putrinya. Kini sudah waktunya ular itu datang lagi untuk mengambil anak yang lain, yaitu Kushinada Hime. Susanoo kemudian mengubah diri Kushinada Hime menjadi selembar sisir yang ia letakkan di kepalanya dan memerintahkan orang tuanya untuk menyiapkan arak khusus; dan tong-tong arak itu harus diletakkan di delapan penjuru mata angin. Ketika ular itu meminumnya dan menjadi mabuk keras sehingga tertidur, Susanoo kemudian memenggal kepala ular-ular itu dengan pedangnya. Di dalam salah satu ekor ular itu ia menemukan sebilah pedang, yang ia persembahkan kepada Amaterasu. Pedang inilah kemudian terkenal dengan nama Kusunagi (alat pembabat rumput). Kelak pedang itu diberikan kepada Ninigi no Mikoto oleh Amaterasu, sebagai salah satu dari tiga lambang otoritas atas Ashihara no Nakatsukuni, atau dengan perkataan lain ketiga benda ini adalah benda pusaka dari kekaisaran Jepang.

Okuninushi merupakan generasi keenam keturunan Susanoo dan Kushinada Hime. Ia mempunyai banyak saudara laki-laki yang lebih tua, yang kesemuanya ingin menikahi seorang gadis yang bernama Yagami Hime. Semua berangkat untuk mendapatkannya, termasuk juga Okuninushi, yang disuruh saudara-saudaranya untuk membawa koper-koper mereka. Saudara-saudaranya telah menyiksa seekor kelinci yang kehilangan kulit bulunya. Pada waktu Okuninushi tiba, ia segera menolongnya dan mengembalikan kulit berbulunya, dan si kelinci meramalkan bahwa pemuda penolong ini akan memenangkan gadis yang menjadi rebutan saudaa-saudaranya itu. Dan benar sajja, wanita itu memutuskan untuk mengawininya. Dua kali saudara-saudaranya berusaha membunuh Okuninushi, namun setiap kali ibundanya menghidupkannya kembali. Dengan harapan leluhurnya Susanoo dapat menolongnya, ia pergi menuju ke Dunia bawah (Ne no Katasu no Kuni), di sanalah ia kemudian bertemu dan jatuh cinta pada putri Susanoo yang bernama Suseribime. Susanoo telah menguji kemampuan Okuninushi dengan maksud untuk membunuhnya, tetapi ia selalu ditolong oleh Suseribime. Akhirnya sewaktu Susanoo sedang tidur, Okuninushi mencari gendewa besarnya, pedang besarnya, dan alat kecapinya yang


(48)

dipergunakan untuk mengucapkan ramalannya, dan lari bersama Suseribime. Susanoo mengejarnya tetapi tidak berhasil menangkapnya.

Dari dataran miring Yomi, Susanoo memerintahkan Okuninushi untuk mempergunakan ketiga alat pusaka itu untuk menjadi yang dipertuan wilayah itu. Okuninushi dapat mengalahkan saudara-saudaranya, dan bersama dewa kecil Sukunabikona no Kami, ia melebarkan kekuasaannya di wilayah itu. Ia menjadikan Suseribime istri pertamanya. Keputusan ini membuat Yagami Hime tidak senang.

Amaterasu berkeputusan untuk menjadikan Ashihara no Nakatsukuni sebagai wilayah yang harus diperintah oleh keturunannya. Ia lalu mengirimkan beberapa utusannya kepada Okuninushi agar menyerahkan kedaulatan kepadanya. Okuninushi kemudian menyerahkan keputusan ini kepada kedua putranya: Kotoshironushi no Kami, yang setuju dengan penyerahan, dan Takemina no Kami, yang tidak setuju. Keduanya berperang, dan putranya yang setuju dengan penyerahan menang. Okuninushi pun menyerahkan tanah itu pada dewi Amaterasu.

SIKLUS TSUKUSHI

Didampingi oleh delapan dewa dan diantar oleh Kunitsukami Sarutabiko no Kami, Ninigi no Mikoto, cucu Amaterasu yang masih bayi turun dengan disertai lambang kekaisaran ke gunung Takachihonomine di Tsukushi (Kyushu sekarang). Disana ia dirikan sebuah istana dan mengambil Konohanasakuaya hime sebagai istri yang kemudian memberinya tiga orang putra: Hoderi no Mikoto, Hosuseri no Mikoto, dan Hoori no Mikoto. Hoderi mempunyai peruntungan di laut, Hoori mempunyai peruntungan di daratan. Hoori memutuskan agar mereka saling menukar peruntungan, dan walaupun tidak rela, saudaranya menyetujuinya. Hoori bukan saja tidak berhasil menangkap ikan, ia bahkan juga kehilangan kail milik saudaranya. Biarpun ia telah mengahancurkan pedangnya untuk membuat 500 kail, Hoderi masih tetap tidak menerima dan menuntut agar Hoori mengembalikan kail yang asli. Selagi Hoori menangisi nasibnya di tepi laut, seorang dewa muncul di hadapannya dan mengirimnya perahu ke laut dengan sebuah perahu untuk membawanya ke istana Wadatsumi (atau disebut juga Watatsumi) milik Dewa Laut. Hoori jatuh cinta pada putri Dewa Laut yang bernama Toyotama Hime, dan hidup bahagia dengannya selama tiga tahun. Pada suatu hari Hoori menceritakan kepada dewa mengenai kail ikan saudaranya, dan Dewa Laut berhasil menemukannya kembali. Beliau meberikannya kepada Hoori yang bermaksud kembali kedaratan. Baginda pun menghadiahi menantunya sebuah permata yang dapat membuat permukaan air laut surut. Dengan pusaka-pusaka gaib itu ia dapat mengalahkan Hoderi.


(1)

mitologi itu. Dengan demikian kebenaran dan keaslian mitologi itu dapat dipertahankan sampai generasi berikutnya kedepan.

3. Mitologi juga dapat disampaikan kepada masyarakat luas dengan penyampaian yang lebih mudah dipahami dan dicerna masyarakat luas tentunya, yaitu dengan cara menjadikan folklor tersebut kedalam bentuk perfilman. Dimana cara penyajiannya akan lebih menarik dengan aktor-aktor serta artis-artis yang terkenal dimana ini akan menjadi daya tarik yang baik untuk menarik rasa ingin tahu masyarakat terhadap cerita dalam mitologi. Sehingga tanpa mereka sadari bahwa mereka telah mengetahui dan mengingat dalam hati mereka jalan cerita yang ada dalam mitologi tersebut.

4. Meneliti dan mengumpulkan mitologi dan bentuk folklor lainya, serta mempublikasikannya untuk menambah pengetahuan dan wawasan. Di Jepang folklor dan sejenisnya telah dikumpulkan oleh ahli atau pecinta folklor. Sedangkan di Indonesia, pada umumnya para pengumpulnya adalah orang-orang Eropa, terutama orang Belanda. Selain itu bahan-bahan folklor dikumpuklan bukan oleh ahli folklor, melainkan oleh ahli-ahli disiplin lain seperti filologi, musikologi, antropologi budaya, teologi (pada misionaris Protestan amupun Katolik), para pegawai pangreh praja kolonial Belanda dan sebagainya (Danandjaja, 1997 : 39).

5. Penyampaian informasi tentang mitologi juga dapat disesuaikan dengan kemajuan teknologi, tetapi dengan syarat tidak merusak nilai keaslian dan


(2)

keklasikannya, seperti memperbanyak website-website tentang mitologi dan bentuk folklor lainnya sehingga lebih mudah dicerna.

6. Memperbanyak buku-buku atau sumber-sumber bacaan tentang mitologi dan bentuk folklor lainnya. Satu hal yang mmenandai kemajuan folklor Jepang (secara ilmiah) yaitu adanya majalah khusus untuk folklor, seperti majalah Kyodo kenkyu (kajian mengenai Daerah Setemmpat), majalah Minzoku (Ethnos), majalah Tabi to Densetsu (Perjalanan dan Legenda-Legenda), dan mmajalah Minkan Densho (Tradisi-Tradisi Populer). Berbeda dengan jepang, dunia folklor Indonesia belum mempunyai majalah folklor sendiri. Akibatnya, semua penelitian mengenai folklor harus diterbitkan di majalah-majalah disiplin ilmu lain, seperti Antropologi, Kesusastraan, dan lain-lain. Di samping itu, karena ilmu folklor di Indonesia sedang dalam tahap pertumbuhan, maka belum banyak orang yang sadar akan kegunaannya; sehingga jika hendak dikembangkan juga belum ada yang berminat untuk membantunya (Danandjaja, 1997 :54).

Setiap mitos, betapapun tidak masuk akalnya, memiliki nilai manfaat dan kegunaan sendiri. Kaum fungsionalis dari kalangan para ahli ilmu sosial menganut pendapat serupa. Mereka mengatakan fungsi mitos ialah menyediakan makna rasa hidup yang membuat orang benrsangkutan tidak akan merasa hidupnya sia-sia. Perasaan bahwa hidup ini berguna dan bertujuan lebih tinggi dari pada pengalaman keseharian merupakan unsur amat penting dari kebahagiaan


(3)

Skripsi ini disusun sebagai perbandingan salah satu bentuk folklor (yaitu mitologi), tetapi bukan berarti berusaha untuk membanding-bandingkan kebudayaan yang sama dengan yang lain. Dengan perbandingan yang sudah dipaparkan sebelumnya, pengetahuan dan wawasan tentang budaya sendiri atau budaya orang lain dapat bertambah. Kita juga harus memahami bahwa pada hakikatnya folklor memiliki dua aspek yang saling betolak belakang, yakni yang positif dan yang negatif. Di satu pihak, folklor dapat digunakan untuk membangun kebudayaan bangsa, untuk menyatukan perbedaan-perbedaan yang ada. Di pihak lain, folklor juga dapat menimbulkan chauvisim kebudayaan terhadap bangsa atau suku bangsa sendiri, sehingga menimbulkkan pandangan bahwa bangsa atau suku bangsa lain lebih rendah, dan jauh lagi dapat menimbulkan obsesi untuk menghancurkannya. Dengan mempelajari folklor Jepang, kita bangsa Indonesia harus menjaga agar folklor diteliti demi membangun kedudayaan nasional bangsa yang dapat memelihara jiwa persatuan (Danandjaja, 1997 : 418). Inti dari semua dalah tergantung dari segi mana kita memandang dan mencermatinya. Mempelajari mitologi buka berarti melupakan agama atau ajaran lain yang menentang ajaran mistis, tetapi lebih luas lagi. Dengan mempelajari folklor secara tidak langsung kita dapat melestarikan salah satu bentuk folklor lisan yang hampir dilupakan masyarakat seiring dengan perkembangan zaman.


(4)

DAFTAR PUSTAKA

Aryani, Dilla. 2004. Perbandingan Kedudukan dan Peranan Wanita dalam Sistem Keluarga Ie dan Sistem Keluarga di Rumah Gadang. Skripsi Fakultas Sastra. Medan : Universitas Sumatera Utara.

Djulin, Habibullah S. 2000. Materi Pokok Kewiraan (diktat). Medan.

Danandjaja, James. 1997. Folklor Jepang dilihat dari Kacamata Indonesia. Jakarta: Pustaka Utama Grafiti.

Endraswara, Suwardi. 2003. Metodologi Penelitian Kebudayaan. Yogyakarta : Gadjah Mada University Press.

Frederic, Louis. 2002. Japan Encyclopedia. Cambridge, Massachusetts : The Belknap Press Of Harvard University Press.

Gulo, Elisabet. Analisis Perbandingan Mitologi Jepang dan Nias tentang Asal-Usul Manusia. Skripsi Fakultas Sastra. Medan : Universitas Sumatera Utara.

Gultom, DJ. 1992. Dalihan Na Tolu Nilai Budaya Suku Batak. Medan : Armanda.


(5)

Koentjaraningrat. 1958. Beberapa Metode Anthropologi dalam Penyelidikan Masyarakat dan Kebudayaan di Indonesia (Sebuah Ichtisar). Jakarta : Penerbitan Universitas.

Koentjaraningrat. 1998. Pengantar Antropologi II. Jakarta : PT Rineka Cipta.

Mircea, Eliade. 2002. Mitos Gerak Kembali yang Abadi – Kosmos dan Sejarah. Yogyakarta : Ikon Teralitera.

Nasution, M. Arif. 2001. Metode Penelitian. Jakarta: Gramedia Pustaka Utama.

Ratna, Nyoman Kutha. 2004. Teori, metode, dan Teknik Penelitian Sastra. Yogyakarta: Pustaka Pelajar.

Ruslani. 2004. Tabir Mistik Ilmu Gaib dan Perdukunan. Yogyakarta: Tinta.

S, Lamtiurma. 2007. Perbandingan Sistem Pewarisan dalam Ie dan Pewarisan Masyarakat Batak Tradisional. Skripsi Fakultas Sastra. Medan : Universitas Sumatera Utara.

Sinaga M, dan Sinuhaji J. 1997. Metode Penelitian. Medan. USU Press.

Situmorang, Hamzon. 2006. Ilmu Kejepangan I. Medan: USU Press.

Suryohadiprojo, Sayidman. 1982. Manusia dan Masyarakat Jepang dalam Perjuangan Hidup. Jakarta : Universitas Indonesia Press.


(6)

Website